喪中はがきを送って、ひと月近く。
たくさんの方々から、様々な「便り」が届いた。
メールやLINEだけでなく、直接電話をかけてくれたり、長い手紙を送ってくれたり。
はがきの文章そのものをほめて下さる方や、しみじみ何度も読み返して下さったという方も。
皆、母を亡くしたわたしに共感し、心配し、励ましてくれた。
はがきが届いてすぐ、携帯にメールを送って下さった小学校時代の恩師の言葉には、
思わず涙がこぼれた。
「ゆいちゃん、名文です!」から始まって(先生は、子供の頃からいつもほめて下さるのです)、
これまでの遠距離介護のことなどをねぎらい、最後はこう締めくくられていた。
「しばらくゆっくりしなさいな」
もう名古屋に通うこともなくなり、ゆっくりできるはずなのに、
あれこれと仕事や用事を作って気忙しくしていた自分を振り返り、はっとした。
ゆっくりすることが怖いのかもしれない、初めてそう思った。
時間があればあるほど、考えてしまう。
母の面影を探してしまう。
そうでなくとも、わたしの口癖は、
「お母さんがこう言ってたよ」
「これはお母さんが好きだった」
「お母さんならこうすると思う」
夫は、何も言わず聞き流してくれている。
母との思い出を語ってくれた友人も何人かいた。
家に泊まったとき、干したてのふかふかの布団を出してくれた、とか、
母の料理は品数が多く、いつも食べきれないほどおかずがあった、とか。
なかでも、短大時代の友人からの手紙は胸が詰まった。
読んでしばらくして、ああそんなことがあったな、とぼんやり思い出したけれど、
わたしはこの出来事を、すっかり忘れていた。
23,4才の頃だったと思う。
仲の良かった友人のひとりが軽井沢で結婚式を挙げることとなった。
わたしたちはそれぞれ最寄りの駅から同じ始発に乗り、
同じ車両で落ち合う約束をしていたのだが、
その朝、乗り込んできたのはなんと母で驚いたという。
「ご~めんねぇ!、有生子、寝坊しちゃって。あとの電車で行くね」
まだ携帯電話などなかった時代。娘が寝坊したことを伝えるために、
自ら早朝の電車に飛び乗った母に、友人はとても感動したと綴っていた。
母はわたしに代わり、何度も謝っていたらしい。
「思い立ったら、すぐ行動」
そんな人だった。
寝坊しつつも、起き抜けでもたもたする娘をしり目に、
間に合わないと判断するや否や、さっと自転車に飛び乗った母の姿が浮かぶ。
いつもパワフルで、どこへ行くにも自転車で、
朝は家族の誰より早く起き、夜は誰より寝るのが遅かった。
だからよく、キッチンの椅子で、ラジオを聴きながらうたた寝していた。
母はわたしに、「ぼーっとする時間がないといかんよ」とよく言っていた。
のんびり、ぼーっとしていないと、アンタらしくなくなるから、と。
うん、のんびり、ゆっくりするわ。
先生にも同じことを言われたよ、お母さん。
今日、12月25日は母の誕生日。
父との結婚記念日でもある。
今ごろは向こうでふたり、一緒に祝っていることだろう。
わたしは、母の好きなシクラメンに水を遣り、
洗濯を干して、空を仰いだ。
2020年のクリスマスが過ぎていく。