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有生子のエッセイ

2000年~the second decade ①『陰の季節』

2020/10/18(日)
2000年5月1日夜9時から、ゴールデンの時間帯で初めて、シナリオを書いたドラマが放送されました。
TBS月曜ドラマスペシャル『陰の季節』(のちに月曜ミステリー)。
念願の「ゴールデンデビュー」です。
プロット(※ストーリーのあらすじ)の依頼が来たのは、98年の秋頃。横山秀夫さんの原作小説が「オール読物」に掲載されてまもなく、だったと思います。
2時間ドラマの全盛期だったこの頃には、企画を通すためのプロットだけを担当する「プロットライター」がいました(今もいると思います)。脚本家志望か、デビューしたての新人がその役割を担っていたのですが、アイデアを駆使してストーリーを構築し、企画を成立させても、実際のシナリオは名の通った脚本家が書く、という「下働き」のような役割です。しかもそのほとんどが、ほんのわずかのギャラだけで、著作権はおろかクレジットに名前すら出ません。
98年99年は、がむしゃらでしたが、プロットだけの仕事は請け負わないと心に決めていました。自分の考えたプロットを他人がシナリオにするなんて、そんな惨めで悔しいことはないからです。

だから制作会社のTプロデューサーからこのお話を頂いたとき、「シナリオを書かせて頂けるなら書きます。プロットだけならお断りします」と、新人ならおそらく誰も口にできないことを言い、交渉しました。
「そうか」と、Tプロデューサーは少し考えて、「わかった、じゃあこうしよう」と、条件付きの約束をしてくれました。「プロットが局に通ったら、試しにシナリオをキミに書かせるよ。その第一稿がよかったら採用する」

『陰の季節』は短編です。二時間ドラマにするには話のネタが足りません。
ほかの短編(同じ横山秀夫さんの、主人公が違う別の話)を合わせて構築する必要がありました。とても難しかったけれども、原作の「誰も死なない」ストーリーは魅力的で、脚色の作業はとても面白かった。振り返れば、この原作との出会いは、わたしにとってとても幸運でした。もちろん、プロデューサーのTさんとの出会いも。
TBSで企画が通り、約束通り、シナリオを書かせてくれたTさん。第一稿で採用を決めて頂き、わたしの力を信じて下さいました。決定稿をあげた日は、N監督(N監督はその後スケジュールの都合がつかず、次のパート2「動機」から監督として参加。横山秀夫さんの原作を見つけて「この話をドラマにしたい」と、Tプロデューサーと動いた方です)と、三人で赤坂のそば屋へ。祝杯をあげながら「いいよ、いいホンだ。よくがんばったな」と、Tプロデューサーはもちろん、厳しいN監督も、何度もほめて下さいました。ほんとうに、嬉しかった。わたしの脚本家人生で、もっとも幸せな記憶です。

放送の翌日。局から高視聴率(18.5%)を祝う花籠が自宅に届きました。
狭いアパートの部屋には不釣り合いなほど大きな籠で、色とりどりの花たちはとても素敵でした。当時はまだスマホはなく、アナログの「映るんです」を買いに走って、何枚も写真を撮ったことを憶えています。
さらに嬉しいことに、この作品で、放送文化基金賞も頂きました。授賞式用にデジカメを買い、ロングドレスも奮発しました(笑)
お花もドレスの写真もどこかへ消えてしまったけれど、新調したデジカメを手に、パート2の撮影現場で撮った二枚を。
主演の上川隆也さんの右隣がTプロデューサー。もう一枚、中央がN監督です。

『陰の季節』はシリーズ化され、パート6まで書かせて頂きました。
わたしの脚本家としての道を拓いた作品です。

(ドラマ)
『陰の季節』(TBS月曜ドラマスペシャル/月曜ミステリー)1「陰の季節」2「動機」3「密告」4「失踪」5「事故」6「刑事」

1990年~the first decade

2020/10/8(木)
富良野塾卒塾後、実家のある名古屋に帰り、放送作家としてテレビやラジオ番組の台本を書き始めます。
22歳の春でした。
倉本先生に紹介して頂いたプロデューサーの方々を頼りに、会社や事務所にはどこにも属さず、たったひとりで、在名各局と仕事を始めたのです。今思えば無謀ですが、周りの方々に恵まれていたスタートでした。とくに中京テレビでは新入社員の方々と同い年ということもあり、社内研修に加えて頂いたので、それをきっかけに良き友たちにも出会えました。まだバブルの余韻が残っている頃で、遊び方も派手で、タクシーチケットも気兼ねなくもらえた時代(笑)。わたしはお酒が飲めないので、スキーやお祭りなど、皆とよく遠出をし、はしゃいだことを思い出します。名古屋時代は仕事もプライベートも、楽しかった記憶ばかりです。
      
<当時の担当番組>
『旅はパノラマ』『来たぞ!ふるさと探偵団』(中京テレビ)
『風のファンタジー』『気分はほっと』(東海ラジオ)など。

28歳を過ぎた頃、30代が見えてくると、やはりドラマを書きたいという気持ちが高まりました。
東京で一人暮らしを始めると、まずは生活のため、アルバイトをいくつか掛け持ちします。
朝日新聞広告局の仕事も、そのひとつでした。
初めて書いたのは、『国境なき医師団』の活動を紹介する1段(800字ほど)の記事でしたが、ある種族の名前を間違え、後日<お詫び>を掲載する大失態を演じてしまいます。単なるバイトだったので「次はないな」と諦めていましたが、当時の局の責任者(仕事を発注してくださる方です)が「一度の過ちではクビにしない」という、厳しくも温かい方でした。わたしも期待に応えなければと奮起し、結果、その後の半年で見開き30段を書くまでに成長させて頂きました。
この経験は今も仕事に真摯に向き合う「戒め」と、自分の力を信じたいときの「お守り」となっています。

けれど、東京での一人暮らしは家賃が重くのしかかり、生活は一向に楽になりません。
勧められるまま系列の会社にライターとして就職しましたが、結局、ほんの2か月ほどで辞めました。安定した収入は魅力的でしたが、会社勤めが合わなかったのでしょう。ドラマへの夢も捨て切れなかったのです。

またバイトにあくせくする日々に戻りました。
雑誌『オリーブ』(マガジンハウス)の音楽ページを書いたり。
近くの大学で、教授の秘書をしたり。学習塾の講師をしたり。
東京でも放送作家の仕事をすればいいのにと、昔の仲間や先輩に心配されましたが、当時のわたしは首を縦に振らず、頑なでした。誤解のないように説明すると、放送作家が嫌だったわけではなく、その逆です。名古屋時代の仕事があまりに楽しかったので、自分がぬるま湯に浸かってしまうのが怖かったのです。

実際、東京では、ぬるま湯どころか、氷水のような世界だったけれども(笑)。

結局、富良野塾の先輩に、放送作家に戻るよう説得され、『CAMEYO(カメヨ)』という作家の事務所に入ったのは、97年の秋頃だったと思います。
名古屋時代のキャリアは通用せず、ゼロからのスタートなのは覚悟していましたが、なにもかもが厳しく、ギャラも名古屋より安く、理不尽なことだらけ。しかもこのときのわたしは、クイズやバラエティ、スポーツなど、慣れないジャンルの放送台本を担当する一方で、ドラマの道も探るという「二足のわらじ」を履いています。
当時は、昭和気質のモーレツなテレビマンがまだ元気だった頃で、怒鳴られることも徹夜作業も日常茶飯事。とにかくこの業界で「生き残らなければ」と闘う、気の抜けない毎日でした。
それでもなんとかやっていけたのは、ひとりではなく、事務所という居場所があったからだと思います。

(当時の担当番組)
『高校生クイズ』『ズームインサタデー』
『箱根駅伝』(日本テレビ)
『発掘!あるある大事典』(※「りんご」「コショウ」の回)(フジテレビ)
『Jチャンネル~食材大百科』(テレビ朝日)など。

翌98年2月。長坂秀佳さん(刑事ドラマの名作『特捜最前線』の脚本家。子供の頃からの大ファンでした)の『透明少女エア』で「脚本協力」をさせて頂く機会に恵まれます。エア、という名前はわたしのアイデアで、長坂さんに「いいね!」と採用して頂いたときはほんとうに嬉しかった。最終回まで、様々なやりとりのなかで多くのことを学ばせて頂きました。そしてこれを機に、同年4月、深夜ドラマの『せつない』(テレビ朝日)で、初めて自分の脚本がドラマ化されたのです。一話完結のオリジナルを数本担当しました。しかし、納得のいかないままプロデューサーに書き直されてしまった作品もあり・・・嬉しさ半分悔しさ半分、といった苦いデビューになりました。

98年99年頃は、この『せつない』を始め、新人の登竜門だった深夜ドラマにいくつか作品を書いていた時期です。基本的にコンペで、採用されなければ報酬(ギャラ)はもらえません。30分の脚本を書きあげても、数万~多くて十数万円程度です。放送作家の仕事と並行しなければ生活できず、過酷な毎日は変わりません。いま振り返ってもオーバーワークで、事務所の同僚や富良野塾の先輩、たくさんの人たちに助けられました。辛い経験も記憶も、わたしの糧になっていると信じたい「下積み」の時代です。

(ドラマ)『透明少女エア』最終回・脚本協力(テレビ朝日)
     『せつないTOKYO HEART BREAK』(テレビ朝日)
     『美少女H2』(フジテレビ)
     『空のかけら~Message from the Sky』(日本テレビ)  

(アニメ)『週刊ストーリーランド』「三つの宝物」「使えないライター」 など



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